認識

2014年03月23日

「認識」について、今回、少し。
というのも、
「認識」について、思いをめぐらすと、それは、奥が深い。
哲学にかかる幾多の書物は、
すべからく、
「認識」についてであろう。
しかし、
言葉による定義を拒否するのが「認識」のいう代物なのだ。
と、僕は思っている。
なぜなら、
各々の「認識」に、各々の生い立ち、各々の利害が、ベトベトついている。
かくして、
「認識」の領域に行き着くと、
ケンケンガクガクとなるのが常であって、
「私は、そうは思わない!」という意見が必ず出る。
このことは、至極当然であって、
このことで
議論は、こよなく深まり、
各々の「認識」もまた、深まっていく。
それは、楽しい!
イノベーション(=価値の創造)もそこにある。
しかし、
その逆もある。
「認識」の違いが、
反目になり、敵対になり、
深まるはずの関係が、ブチブチと切れていく。
と、なれば、
むかしは、各々の〈認識の齟齬(そご)〉が原因で、いくさ(=人殺し)になった。
いまでは、例えば、韓国との首脳会談で、〈歴史認識〉が火種となっている。
(日韓両国の関係改善は、今や〈認識の共有〉に集約されている)
……教科書でも、領土問題をめぐり〈歴史認識〉が、火花を散らしている。
……県議会でも、様々な課題を前に〈現場認識〉で、議論が足踏みをする。
このように、
「認識」とは、さほどに奥が深い。
そして、
寒々しくなるほどに、時にコワイ。
「認識」を豊かに対話できるツール(=道具)にしたい。
時々に痛切に思う。
僕は。

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